瞿秋白

瞿秋白 
1899年 - 1935年
本名は瞿秋白(くしゅうはく)江蘇省常州出身。中国共産党の元最高指導者。中国左翼文化運動のリーダーの一人。瞿秋白は官僚の一族の家に生まれた。祖父の瞿賡甫は湖北布政使(長官)を務め、父瞿世瑋は、絵画、剣術、医学に通じる文化人だった。浙江省で県級都市の行政長官だった叔父の瞿世琥が辛亥革命で官職を退くと家が没落。その後、親戚の援助を得て武昌外国語学校にて英語を学習した。1917年、北京で外交部(外務省)が運営するロシア語専修館に入学し、ロシア語を習得した。1919年、五四運動の際にはロシア語専修館の学生代表として参加し、北京学生運動のリーダーの一人になった。

1920年、北京『晨報』と上海『時事新報』の特約通信員としてモスクワに2年間赴任。『餓郷紀程』『赤都心史』などを著し、十月革命後のロシアの実情を中国に伝えた。1921年、モスクアに開設された東方勤労者共産大学の通訳と助教に就任した。1922年、ロシアで中国共産党に加入した。陳独秀が中国共産党代表としてロシアを訪れた際には通訳を務めた。

1923年1月、瞿秋白は陳独秀に促され帰国した。その後、北京で中国共産党の宣伝業務を請け負い、『新青年』などの編集を担当した。同年、上海大学が開設され、瞿秋白は教務長と社会学系主任に就いた。1924年に国民党が改組され、瞿秋白は国民党第一届大会に出席し、大会宣言の起草に参加した。その後、国民党中央政治委員会の委員となり、国民党の業務にも関わった。1925年から中国共産党の中央委員を務めた。1927年第一次国共合作が崩壊し、陳独秀が失脚。その後、瞿秋白は中国共産党の最高責任者となり長沙、広州の蜂起を主導したが、失敗に終わった。

1928年4月、瞿秋白はモスクワに到着し「中国共産党第六次全国代表大会」に出席。そこで蜂起失敗の責任を問われ、最高責任者から解かれた。その後モスクワに留まり、国際代表団の団長を2年間務めた。1930年、瞿秋白は機会主義と異分子保護で批判され、団長を解かれて帰国した。1931年には、上海で開かれた中国共産党第6期中央委員会第4回全体会議において、中央政治局員を解任され、党指導者として完全に失脚した。

瞿秋白は、結核を患いながら、上海で文芸創作や翻訳活動を始め、茅盾、魯迅らと共に左翼文化運動を展開した。この中で魯迅と深く交流し、魯迅名義で自分の作品を発表したことがあった。また国民党政府に追われており、少なくとも3回魯迅の自宅に避難した。1934年、瞿秋白は瑞金に避難。1935年、香港に逃れる途中で、福建省長汀で国民政府軍に逮捕され、同地で銃殺刑に処せられた。


仙台魯迅研究会

本会は、仙台における魯迅の記録調査のほか、研究者のネットワーク化、研究資料の整理と保存、学習会の開催などの活動を行っています。
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